---絹
「どうしたんだい?なにかあったのかい」
食後、居間でお茶を飲んでいると母に見咎められた。
「山沢さんに何か言われたのかい」
「その、山沢さんをちょっと怒らせちゃって……怖かっただけで…」
思い出したら涙が…。
「お風呂、入ってくるわ」
慌てて居間から出てお風呂へ。
お母さんが呼んでるけど理由を聞かれても困るから。
---山沢
うーん、やはり怖かったまま帰してしまったかな。
八重子先生にバレるの覚悟で抱くべきだったか。
取敢えず明後日になるまではわからない。
ああ…明日熊野神社に行って誓紙を貰って来よう。
信じられぬというならば起請すればよかろう。
ああいや待て、起請誓紙を遊女のものだと思われていたら怒るか。
参ったな…。
稽古日。
一応熊野誓紙を鞄に入れて来た。
先生は…出てこられない。
動揺してしまった。八重子先生の指導だが簡単な点前を間違う始末だ。
稽古が終わり居間へ呼ばれた。
「山沢さん…この間いったい何があったんだい。絹は何も言わないんだよ。」
「すみません、カッとして怒鳴りつけてしまって。あの、絹先生にお会いできますか」
表から一番遠い奥の部屋にいるという。
そんなに怖かったのか。フォローが足りてなかったか。
八重子先生に断って奥へ行く。
襖を開けると驚いた顔をされた。入って閉めると後ずさり。
「…私が怖くなりましたか」
「あ…」
無意識の行動だったようだ。
「この間は乱暴にしてすいませんでした。
二度とああいうことはしませんから、どうか嫌いにはならないでもらえませんか」
「嫌いじゃないわ!…怖くて」
私が一膝進むと、一膝下がられる。
「うぅん…それは…。あなたからなら近づけますか?」
先生は少しずつ、近寄ってくる。
私はできるだけ動かないようにしている。
手を動かせば捉えられるほどに近くまで来た。
「私はあなた以外誰も欲しくはない。あなただけが好きです」
懐から熊野誓紙と筆ペンを出し、誓文を書き、小刀で親指を切り血判する。
それを先生に渡した。
「これを、持っていてください。私の思いです」
それから…。
「あなたがお嫌なら、芸妓と手を切りましょう。二度と会いません。
もう一枚誓紙を書いたって良い」
「山沢さん…」
「それでも信じられぬというのならこの指落としましょう」
左手の小指に小刀を当てる。
先生がその小刀を慌てて取り上げた。
「信じる、信じるわ、だからやめて」
鞘を、というので渡すと収めて遠いところに滑らされた。
先生は私の手を取り親指の傷を舐めてくれた。
血の赤さで彩られた唇は扇情的で、思わずキスをしてしまった。
「駄目…ここじゃ…」
「今なら誰も来ませんよ」
それでもやはり気になるようだ。
「やっぱりうちに来ませんか…あなたを抱きたい」
懐に引き寄せてそういったがお稽古日だから途中で生徒さんに会うと気まずいという。
困ったなぁ。
そのまま懐に抱いたまま小半刻。日が暮れてきた。
ほぅ、と先生の息が聞こえた。
「まだ、怖いですか?」
そう聞くと、もう大丈夫という。でもあんな風にされるのは怖い。
「私が嫉妬したからだけど…」
まあ悋気を起こさせた原因は私だからなあ。
「まったく嫉妬されないのもそれはそれで微妙ですけどね。気をつけます」
ん?そろそろ夕飯の支度しないで良いのかな。
そういうと慌てた顔をして支度しないとっていうので手伝うことにした。
台所でパタパタと立ち働き、夕飯を作る。
生徒さんたちも引けたようだ。作るだけ作って今日は帰ることにした。